基本原理
今から200年前にドイツの医師ハーネマンがその生涯をかけて確立させた療法で、その起源は古代ギリシャのヒポクラテスまでさかのぼることができます。
ホメオパシーは同種療法あるいは類似療法と訳されている通り、「症状を起こすものは、その症状を取り去るものになる」という「同種の法則」が根本原則になっています。
ハーネマンはこの「同種の法則」に、症状を起こすものを非常に薄めて使うことにより、体に悪影響を与えることなく、症状だけを取っていくものとなるという「超微量の法則」を打ち建て、安全で体にやさしく常習性を持たないホメオパシー療法を完成させました。
ホメオパシーでは症状を抑圧するのではなく、症状を出し切れるように後押しします。
そうして初めて心身ともに健康になると考えます。 私達の心や細胞が抱える不自然なパターンを解放し、体の芯から健康を取り戻す自然療法、それがホメオパシーです。
ホメオパシーはいかにして始まったか
ホメオパシーの歴史は1755~1843年に生きたドイツ人医師であり科学者であるサミュエル・ハーネマンに始まる。
ハーネマンは際立った学者であり、並外れて決意の堅い人物だった。
1779年に医師としての資格を得てから、数年間診療を行ったが、序々に当時の有害で効果のない治療に幻滅していった。
主に瀉血、下剤、毒の投与を行っていた当時の正統派医学に対して、彼は遠慮なく批判をするようになった。
彼は僅かな金銭を得、多数の敵を得た。当時の医師や薬剤師に対する彼の攻撃から「激怒のハリケーン」というあだ名をもらっていた。
彼は医学と科学の出典の翻訳で日々の糧を得ていた。
その時代の指導的医師、医学著者であったウィリアム・カレンの訳した書籍によると、ハーネマンが初めてホメオパシーの主原理である同種の法則について記述したのは1790年であった。
脚注の中で、キナ皮(キニーネを抽出する)のマラリアに対する効力はその苦味と収斂性にあるとするカレンの見解に対して、ハーネマンは争議した。
ハーネマンは他にも同じように苦味を持ちながら、マラリアの治療に全く効目のない物質は数多く存在していることから、これが効果の原因ではないと断言した。
そして彼はキナ皮を自分自身で繰り返し服用し、薬草の毒性に身体が熱、悪寒、その他マラリアに似た症状で反応した過程を説明した。
これは初の「プルービング」あるいは「予備知識無しの試験」であった。ハーネマンはこの薬草が効力を持つ理由は、それが治療する病気の症状と同種の症状をもたらすものであるからだと結論づけた。
似ているモノが似ているモノを治す
「似ているものが似ているものを治す」という概念は、初めてのものではなかった。
紀元前15年、医学の父として知られているヒポクラテスは、治療の手段には2種類あり、それは相反するものと同種のものであると記述している。
主流である西洋医学では理論として無視されているが、この原理は数多くの文化で、アメリカン・インディアン、マヤ語族、中国人、アジア人によって治療に利用されており、伝統的西洋医学においてさえ、癌の原因である放射能を、癌を処置し治療するために使い、この原理が浮び上がっているのである。
このレメディーは、不思議なことに薄める都度に激しく振盪するため、薄めれば薄めるほど効果(ポーテンシー)が高くなります。科学的にそのメカニズムは証明されていませんが、実践の場において結果が確認されています。現象が先にあり、科学が後について来るのは世の常です。物質がなくなるまで薄めているのになぜ効くのかの解明は、科学者は物質がないものは効かないと頭ごなしに否定するのではなく、体験し実験することが仕事であるのですから、科学者の方々にぜひドグマを外し頑張ってもらいたいものだと思います。
この様に心臓の機能を保つためのジギタリス、そして活動過多に対してアンフェタミンのような薬物を使用することは、同種を使うという例である。
しかし同種の法則をホメオパシー(語源はギリシャ語にあり、「ホモイオス」は同種を、「パソス」は苦痛あるいは病気を意味する)と名づけ、医療の体系として発展させたのはハーネマンだった。 キナ皮の体験の後、彼は自分自身、そして彼の弟子による多数の「プルービング」(症状が現れるまで薬物を服用する)を実施し、そして毒を与えられた被験者たちにより提示された症状の根拠を学んだ。
最も変化しやすいのは自我です。自我は様々な要因からどうしても真我、つまり本来の生き方から離れてしまうことがあります。悲しい、苦しい出来事に遭遇してその都度乗り越えられればいいですが、人生には様々な要因から感情を抑制しなければならないケースも多くあります。するとあの人によってこんなに苦しんだとばかり自我にこだわりが生まれ、バイタルフォースが滞り、結果、肉体の症状となって現れるのです。これは治癒の方向性と関連があり、後述しますが、自我と肉体の関係に限っていえば、肉体に現れる症状はすべて自我の歪みが原因であります。
最後に彼は医療診療を再び、しかし異なる基本原理で行った。今回、彼は患者の中に「同種療法薬」(プルービングに基づき、患者の症状に最もつり合った症状を示す薬剤)を探すようになった。彼は自分の理論を実証するその結果に驚いたが、副作用の高さには不満足だった(彼は未だ物質的薬剤の服用を実施していた)。
患者の苦痛を最小限に和らげるために、彼はより少ない薬剤の服用を試みた。最終的に彼は「震盪」として知られている、それぞれの段階において勢い良い振動を行う希釈方法を紹介し、その結果生まれた薬剤を希釈震盪された(ポーテンタイズ)レメディーと名づけた。彼はこの方法で副作用が避けられるだけでなく、薬物を希釈震盪するほど、効果が増すことを発見した。
1831年ヨーローッパでコレラが大流行した。ハーネマンは病気に対するホメオパシー治療を記事にして発行し、始めの段階ではカンファ(樟脳)を、後の段階ではキュープロム(銅)、バレチュームアルバム(シロバイケイソウ)、ブライオニア(シロブリオニア根) 、ラストックス(蔦漆)を使用するよう提唱した。
また「あらゆる感染原因」を破壊するために衣服やベッドを熱処理すべきこと、そして清潔さ、換気、部屋の殺菌、隔離を力説した。
細菌のパストゥールや殺菌のリスターに先立ち、これは著しい先見の明のある忠告である。
ヨーロッパ中でホメオパシーによって流行病はより良い結果で治療された。
伝統的正統派治療の死亡率が50%かそれ以上だったのに対し、ホメオパシーでは2.4~21%に変化したのである。
ハーネマンの成功にもかかわらず、彼の手法は医療主流派により、不信や嘲笑を受けた。しかしその有効性により、ハーネマンの頑強な根強さと共に、ホメオパシーの手法は生き残り、広まったのである。