ヨーロッパにおいても、アメリカと似たような経済上の要因が見え隠れしていた。フランスでは、ある医学生が単にホメオパシーへの興味を示しただけで、大学を退学になった。高名なフランス人医師J・P・テッシェは従来型医療に従事する医師だったが、彼は聖マルグリット病院の肺炎患者を対象にホメオパシー治療の効果を調べた。肺炎患者が選ばれたのは、肺炎が一般的かつ認知度の高い病気で、病状の診断や予後において曖昧な要素が少なかったためである。偏向を抑えるために、2人の医師の治療結果が評価の対象とされた。肺炎治療に関する当時の他の研究結果を参考に、テッシェは33パーセント前後の死亡率を予想していた。ところがふたを開けてみると、この調査の死亡率は七・五パーセントという数字が出た(Dean, 2004, 118-120)。
ホメオパシーに有利な結果が出たことをテッシェが報告したところ、パリ・アカデミーで激しい反発が巻き起こった。一般の医学誌はこの研究結果を掲載しようとしなかったので、彼はそれをホメオパシー雑誌に送った。するとその行為が「罪」とされ、彼はフランスの医師会から即刻除名されてしまった。 同様の状況はイギリスでも見られた。イギリスに中央保健局という政府機関があり、一八五四年に国会議員のベンジャミン・ホール卿がそのトップに着任すると、彼はまず、その年に公衆衛生上の大問題となっていたコレラの蔓延に関する大規模な疫学調査を実施すべく、臨床医で構成される総合医学審議会を立ち上げた。審議会がまとめた報告書は、ロンドン市内の病院でコレラの治療を受けた入院患者および外来患者の51.9パーセントが死亡したこと、そしてどの種の治療も効果を発揮していないようだということを伝えていた。 折しも、ゴールデン・スクエアにあったロンドン・ホメオパシー病院が一八四九年に慈善団体を創設し、1850年に活動を開始したばかりだった。コレラが大流行した1854年には、ベッド数30床のその病院は、周辺地域の貧しい患者の治療に徹した。このホメオパシー病院も、他の病院と同様、コレラの治療記録を審議会に提出したが、ホメオパシーを使用したケースの統計は報告書には盛り込まれていなかった。ホメオパシー病院におけるコレラ患者の死亡率は、わずか16.4パーセントだったのである。 この数字を除外した理由の説明をホールが求めると、審議会は次のように回答した。
ホメオパシー療法家の報告を公表してしまうと、一般に知られている療法の効果によるものとの推測を受け、彼らの平均治癒率の価値と有用性への信用を貶めることになるばかりか、真実の保全や科学の発達に逆行する類似のやぶ医者的行為に不当な認可を与えることになりかねない(Nichols, 1988, 145-146)。
簡単に言うと、ホメオパシー病院の統計値がリストに加えられなかったのは、コレラ治療にはホメオパシー薬のほうが優れていることを示唆することになるからということだ。 懐疑的な立場の人は、ホメオパシー病院の数字がどの程度確かなものであったのかを怪しむかもしれない。そこで、ロンドン地区担当の調査官がホメオパシー病院を訪問することを拒んだために、別の調査官が渋々その役目を引き受けたことを注記しておかなくてはならない。この調査官は1855年2月22日、ホメオパシー病院に次のような手紙を送っている。
あなた方はお気づきであったと存じます。貴院を訪問したとき、わたしがホメオパシーというものに偏見をもっていたことを。そしてあなた方の施設では、わたしのなかに友ではなく敵を見いだし、またそれゆえ、訪問の初日、貴院の慈善基金に寄付するよう友人に助言しようというほどの心境になって帰途に就くには、何らかのしかるべき理由をそこで見いだしたのであろうということも。(Dean, 2004, 127)。
1858年には一般医のあいだで、ホメオパシー診療を非合法化しようとする動きが見られた。しかし熾烈なロビー運動にもかかわらず、この法律は成立には至らなかった。その理由の一つは、コレラの大流行時にホメオパシーの治療が有効だったという事実があったからだった。それでも英国医師会は、ホメオパシー診療を行うことや、患者の治療に際してホメオパスに助言を求めることを禁じる内規を設けた。さらに、医学生にホメオパスにならないと誓約させる文書に署名することまで要求し、署名を拒んだ学生は実際に落第になっている(Baumann, 1857)。
イギリスのホメオパスたちは比較臨床試験を行うよう主張し続けたが、その要求は決まって却下された。1860年代にヴォーン・モーガン少佐が、ロンドンの病院にホメオパシー病棟を開設資金として、5000ポンド(現在の100万ポンド、米ドルでは2億ドルに相当)の提供を申し出たが、ロンドン市内の全病院がこの申し出をはねつけた。どのようなかたちにせよ、ホメオパシーやホメオパスの関与を認めてしまうと、主流派の医師がその病院を出る事態になったり、その病院に患者を回すことができなくなる可能性があると真剣に危惧したのだった。
このような措置でもまだ不十分と見れば、一般医たちは、ホメオパスの治療を受けていた患者が死亡した際に、ホメオパスに殺人容疑までかけようとした。患者が死亡するケースはどんな医者にもあることだが、一般医たちは、ホメオパシー診療を阻害するためには、ありとあらゆる方策を講じたのだった。一般医の患者のほうが死亡することが多かったにもかかわらず、ホメオパスがこれらの医師を殺人罪で告訴することはなかった。 またこれ以外にも、ホメオパシー医が瀉血を行わなかったり、強力(かつ危険)な下剤を使用しなかったことで裁判ざたになることもあった。このように、効果もなく危険な医療行為を行っていた医師が、そうでない医師を訴えていたというのは皮肉な話だが、一九世紀にはこのような攻撃は珍しいことではなかった。しかし裁判所は、一貫してホメオパシー診療を行う医師側の権利を擁護した。
ドイツ北部では指折りのホメオパスであったカール・フリードリヒ・トリンクス医師(1800?1868)までもが1829年に訴訟の犠牲者となっていることにかんがみれば、どんなに高名なホメオパシー医であっても、攻撃対象にならない保証はなかったのである(Jutte, 1998, 79)。